地球科学を学びながら走る博士学生の考えること

旅の始まりはきっと近くにあってだな

つながってたい

 

昨日もこのブログで話した、最近うちの研究所にやってきた留学生と、いつもの部屋のメンバーたちとご飯を食べにいって来た。いつもの部屋のメンバーたち、と言っても一緒に飲み会はおろか、ランチも行ったことがなかった。

別に中が仲が悪いわけじゃないのだけれど、みんな結構個人主義的というか、自分の研究に没頭するタイプの人が多くて、わざわざ誰も一緒にご飯行きましょうとか、飲みに行きませんかとか、そういう習慣が当たり前のようになかっただけだったのだ。とはいえ、違う学科の友人をみたりするとよく飲みに行ったりとかもあるし、うすうす自分のなかでは、どうも居心地の悪さを感じていたのだが。

そんな中で、初めて今日みんなでご飯行こうという話になって、留学生の二人の率直な日本、というかうちの研究所の印象を聞くことができた。

初めて来た人にとっては、やっぱり奇妙に映るらしい。同年代の友達たちとこんなにも話さないし、何よりも人と人とがdistant、距離があるって。確かになあって、頷くことだった。ああ、申し訳ないなあって。彼らに対してもだし、日本人のイメージがそうなってしまうのが、自分がそういうイメージを彼らに与えてしまうのが、情けないなあと。

自分がロシアのモスクワ大に行った時、たくさん案内をしてくれた研究員の方がいたり、オペラのチケットをいただいたり、演劇やウォッカの飲み会に誘ってくれたりしたこともあったなあ。「おそロシア」と言われるあの国の人々にもたくさん助けられ、初めてのその地でビビりまくっていた自分たちがどれほど落ち着きを、安らぎを、歓迎を得たか肌身を持って感じていたはずなのに。

僕らは、必要以上にシャイで、ナーバスなんだと思う。

そう留学生の一人に伝えた。

彼女は、日本に来てから本当にはじめは孤立しているように感じていたし、話をする人もいなくて孤独だったと打ち明けてくれた。僕のような人はそんなに少なくもないはずで、日本人の中にはいつの間にか、歳をとるにつれて、「ホンネ」と「タテマエ」のその駆け引きに翻弄され、いつの間にか相手との距離を置くようになってくることがしばしばあるように思う。

その駆け引きが見えない留学生には、ただただそれが冷たく、自分が受け止めてもらえてないし、無視されているように感じるって言うのは、至極もっともなことだよなあ。

 

ナーバスだしシャイだし、それは僕も抱えているし、日本人の中にもそういう人は多くて。だけど、わかって欲しいのは、みんな本当は話したいし、打ち明けたいし、親切にしたいし、笑っていたいんだよって。

シャイとナーバスさに勝つまでにちょっとの葛藤があって、なかなか出てこれないこともあるけれど、それはあなたを無視しているわけではないし、嫌いなわけじゃない。

ゆっくりだけど、少しずつ知り合っていくと、ゆっくりだけどみんな心を開いてくれるよ。

 

僕たちと言う主語で、そう伝えてみなけれど、きっと それは自分のことだったように思う。

帰り道、日本人の中に紛れてその子がトランプゲームをしているのをみた。前からそうだった?わかんないけれど、そうやって心を開こうとしているのをみて、とてもうれしかった。自分の言葉でちょっと勇気出してもらえたのかな。

 

僕らがちょっとの恐れに負けて、関係を閉ざして殻に閉じこもることで、人一人の生活が孤独になってしまうし、誰か一人がちょっとの勇気でそれから踏み出すと、それが伝わってなにか温かい関係が生まれるのを今日は感じた。

なによりも、お昼ご飯に誘った日本人の学生たちも、みんなでの食事、行きたいって思ってたらしかった。

 

ああ、やっぱみんなそうだったのかな。

 

繋がっていたいし、笑いたいし、受け止めてもらいたい。

親切にしたいし、誰かを助けたい。

そんな一人一人の人柄がみんなあるんだって、一人じゃなかったと安心した。

 

人によってはなんのこっちゃと思う出来事かもしれないけど、ちょっとの変化が、起き始めた気がして、忘れないように今日も綴った。

 

エネルギーとエネルギーの衝突と、その後。

昨日はロンドンからやって来た研究者の方とお話しする機会を作っていただいて、彼の研究のこと、自分の研究のこと、そしてこの研究所の雰囲気のことを話した。

多くの外国人研究者や留学生がやって来る僕らの研究所だけれど、どうもみんな一人でいることが多いようで、ぜひ彼らと一緒に食事をしたり、議論を積極的にしてみてはどうか、と言ってもらった。

そのことは最近になって妻とも話すことがあったのだけれど、昔に比べて明らかに人に対して親密な関係や話す機会をわざわざ作るということが少なくなっていた。

それには、忙しいし、自分の研究を進めていかなきゃいけないとか、集中したいとかいろんな考えがあったのだけれど、結局のところ、ここのところ人と研究のこともプライベートなことも話さないことは自分の頭の中の、なんというか内圧が高まるというか、どんどんと考え方が狭く窮屈になっていてしまうことのように感じていた。

ロンドンからやって来た彼と話す中で感じることや刺激というのは、自分でいくら考えていてもきっと出てこないような考えであって、薄々なにか問題は感じていたって、自分はこんなにも今の場所に留まろうとしてしまうのか。と、結構ショックだったとともに、こうして人と話すことで、新たな考えが生まれることに、大きな変化を感じた。

 

正直って自分の考えや自信が揺さぶられるようなことなので、ぶっちゃけ自分としては心地よくはないんだなあと思う。でも、自分とは異なる考え方、生き方、文化との衝突は、大きな変化をもたらしはじめは少し苦しいし落ち込むけれど、その衝突から運動量をもらって、大きく加速できるような感じがする。

物理と違って面白いのが、きっとそれはお互いに運動量の絶対値が大きくなる。

きっと彼はそんなことを繰り返して来たのだろう。だからあそこまで熱心に他の研究者との会話を進め、もっと彼らから学べることをたくさん得て、さらに彼らへまた何かを返して、またいつか返してもらって。

そういうエネルギーとエネルギーの相互作用による運動量の増大を、きっとこれまでも多く体験して来たのだろう。

 

今日、研究室の学生たちと初めて?くらいの珍しさでランチを一緒に食べた。明日も、初めて誘った人たちとみんなで行こうということになった。聞いてみたらおんなじようなことを思ってたらしくて、やっぱみんなそういうエネルギーを持ってるんだなって、ちょっと安心したし、嬉しかった。

 

悩んだ時に相談できる先輩、後輩、そして同期。いろんなエネルギーがぶつかっては悩んで、変容して、結局はエネルギーが増えて。

そんな風に人と人とは関わって、もっとごきげんに、軽やかに変わっていけるのかもしれないなあって、落ち込んだ1日をすぎて思うようになった。

 

まだまだ先は長いから、少しずつ少しずつ。そして、Take it easy。
頑張っていきましょう。

 

始めること、走ること、やめること。

走ることをやめないこと。

 

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TAKUYA∞(UVERworld) “走るひと”の姿Vol.1 - スポーツナビDo

 

走ることの意味を考えている。

 

健康のため、いいタイムを出すため、人よりも速く走るため、運動ができる人であるため。

パッと考えるだけでもいくつも出てくるのだが、自分が走ることを求める意味はなんだろうか。いや、今必要としているのはなぜたろうか。

 

今の僕に必要なのは、何かに熱中をすること。一日でもこれをしないと、落ち着かない。そんなことが心の支えになるということを、直感的に知ってる。

公文、サッカー、勉強、マラソン。

様々なことに熱中をしてきたけれど、どれも熱中をしていると、我を全て忘れて没頭する時があり、それはもう幸せな瞬間であったことを思い出す。

 

今、運動をすることで、稼ぎにもなるはずはない。職に繋がるはずもない。ましてや怪我のリスクや苦しさばかりが付いて回る。

 

しかし、僕が今走ることを求めるのは、やめたくないからだ。始めてもすぐにやめてしまう。僕の生活にはやめることが付きまとっている。

サッカー部をやめた、あの日から、か?

 

あの時のせいにするのは簡単なことだ。

「あの日から負けが、悔しくなくなった。」

そんな姿で大人になっていきたくはない。

 

でも確かに、あの時の後から、僕はやめることを前よりも簡単に選ぶようになった。

今、そのことを認めたのなら、ここで変わっていけるかどうかだろう。

 

負けたままでいるのは、簡単だ。

勝つための努力は必要がないのだから。

 

やめることは、簡単だ。

続けていくための努力は必要がないのだから。

 

だけど、負けたままで、やめたままで生きていくことは、ちっとも幸せでない。

 

自分が幸せになるには、誇りを持つこと。人と比べて優っている、劣っているではなく、自らが決めたことを始め、続けること。

 

それが僕が走ることを、再び始めた理由だ。

雨でも走るし、風邪をひいていても走る。

 

自分で選択したことを、始め、続けること。

そしてその先で、たどり着く自分を知りたい。

 

 

 

 

 

そこはもう、過去の僕が生きる場所じゃない。

 多くの考えが一日を過ごす間に巡っていく。まず朝起きた時に感じる、倦怠感。少しだるめな朝がここんとこ続いている。夜の暑苦しさが眠りの質を妨げているのかな、と思って冷房をきちんとかけてみたけれど、どうも違うらしいようだ。

 目を覚ました後、なんとか起き上がってゆっくりと体を伸ばす。ストレッチをしてみる。そうしていくうちに、硬くなった練り消しがゆっくりとまたその柔らかさも取り戻す様に、少しずつ、体と心が柔軟さを取り戻していく。ふっと、自分の頭が疲れているという妄想に疲れていたのか、と思う。

 毎日を過ごしていると、過去の自分とのつながりを、大きく意識してしまうのだ。昨日までの自分はこうだったから、と「自分の毎日はこんな感じだ」と心身の深いところで、意識的になる前に、思い込んでいることがある。人と話すことは疲れる。集中力が続かない。新しいことを始める勇気がない。いろんな、自分を有刺鉄線の内側に閉じ込める言葉や思い込みを、自分自身に囲いつけて、動けなくしてしまっていることに気づく。

 

「がんばりなさい!
 続けることが大事
 弱音は禁物。
 感情が身を滅ぼすことを忘れないで!」

 『四つの小さなパン切れ』マグダ・オランデール=ラフォン(訳:高橋啓

 

 人類の恥ずべき記憶、アウシュビッツの中で死に最も近かった人々の中に、こうして心を保っていた人がいた。強大な有刺鉄線の中で、他者に、その気まぐれに命を支配されていた人が、心を保つために、抱きしめていた?自分にはその苦しみは計り知れようもない。

 それでも彼女がつむぐ言葉は、大きな支配の暗闇から、日々に時々差し込む優しさ、憐れみという光を、感じ、生き延びた、その光を語る。その苦しみを乗り越えた彼女が今語る言葉の端々には、穏やかな空気が満ちている。そんな彼女たちの苦しみを、そして光を、僕はどう見るのだろう。ああ、どんなに僕は、不幸論者としての人生を送っていたことか。

 

 僕は、誰にも縛られていないのに、いつのまにか大きな有刺鉄線で、僕自身を囲って閉じ込めた。その柵を作ったのは、過去の僕を、不満の眼差しで振り返る僕自身だ。

 新しい一日は始まってる。そこはもう、過去の僕が生きる場所じゃない、今の僕が生きる、その瞬間が僕らにはつながっていく。そうして繋いでいくことでしか、僕は生きられないのなら、先のひとつひとつの瞬間を繋ぐことに、一生懸命になればいいんじゃない。

 今日をどんなふうに過ごそうと、新しい日はすぐそこにあってだな。

 

働くことの素晴らしさ

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記念日、初めていわゆる「一流ホテル」と呼べるであろうホテルに泊まった。

 

「良かった」を通り越して、思い出すだけでも感動で鳥肌を発動するようなそんな時間を過ごさせて頂いた。

「頂いた」としか言いようがないほどの、感動の連続だった。

心からのサービスと、素晴らしい時間を提供してくれようとする心がけが、随所に見える文句なしの時間。

 

どんなに大変だろう仕事であっても、決して嫌な顔をすることなく、対応してくださるその姿、あり方を思って、仕事の素晴らしさを覚えた。

 

そうか、仕事って素晴らしいことなんだ、人を幸せにするものなんだって、そんな知らなかったことを教えて頂いた。

 

忘れられない一日として、そうした幸せを作る仕事の素晴らしさを、心から感じたのだ。

 

知りたいことや見たいもの行きたい場所はもっとたくさんあって

今朝、電車で本を読んだ。 

https://www.instagram.com/p/BTyl7fYjMyM/

このところ読書から離れていたなぁと改めて思う。読む本は軽い内容のものだったり、読んでも思い出せないような何か。なんだかあまり残るものはなかった。

数年前、たくさんの本を読んでいた。そしてとにかく求めていた。自分のその時の「現在地」から、ふっと別の場所へと連れ出してくれる言葉を求めて、よく読んでいた。

その時の言葉は、けっこう覚えている。いろんな感情と一緒になって。例えば、梨木香歩さんの「ぐるりのこと」と「春になったら苺を摘みに」の2つのエッセイは、僕の人生の中に緩やかにあたたかい希望を与えてくれたように思える(そのころ、人と人との境界線の引き方に、困惑し、悩みを抱いていた)。この本のことはきっといつか改めて話すと思う。

今以上に、何かを求める気持ちが強かった。幸福感がない分、幸せになるために何かが必要だと必死だった。その日々は苦しかったのだが、その分、何かを求める気持ちで、身体が動かされた。動かざるをえなかった。

 

たぶん僕は弱いから、油断をすると安心をして、身体を動かすことをやめてしまう。その止まった時間っていうのは、少しずつ自分の幸福感を奪ってしまう、そんな気がしている。僕にだって、求めるものがないわけじゃない。

今読んでいる本を読んで、その言葉や、その感性に悔しくなるほどに感動をした。ああ、こんな言葉を紡ぎたいんだ。本を書く人は(エッセイに限るのかもしれないけれど、そうではないと信じて)、何かを切実に求めている。そこで触れた世界を、一番よく描写する言葉を求めている。

一日に起こったことを、言葉にする。触れた世界を表現する。自分の感情を、すっと感じたい。そういう人の感性と、それを表現するための「自由」があればな、って思う。音楽に乗せたり、絵と一緒に描いたら素敵だろうな。

仕事や生活のリズムがうまくいかない時は、自分がダメなんじゃないかって思いがちなんだ。悪い癖。あの時はこうだった、もっとこうならきゃ。そうやって、今の僕を苦しめるから、もっと苦しくなる。

 

今の僕にも求めることはある。今の毎日だって間違ってなくて、ちゃんと前に進んでる。求めているものは、たぶんとっても素敵なもんなんだ。

これから知ることや見るもの、行く場所には、多分僕らの想像のつかないことだらけだ。だったらそれを楽しみにしている感性を、すっと肩の力を抜いて、感じればいいんだと思う。

そうやって少しずつ、僕を縛るものをほどいて、ちょっと違う僕と出会っていけばごきげんだ。

 

2017.05.11 22:27

とてもじゃないけど自分だけじゃ決められない

連休前に大きな仕事を終えておいて良かったなあと言う気持ちを持ちながら、連休の一日目を迎えた。

午前中は家でのんびり過ごして、午後に青山と渋谷へと向かった。

https://www.instagram.com/p/BTnknHXjpqj/

嬉しいことに、僕には友人の中に、心から素直に悩みを打ち明けることができる年の離れた人が2人いる。今日、青山でお会いしたのはそのうちの一人で、僕がこれから進もうとしている道と似た境遇を過ごしてきて、今も過ごしている人だ。(きっともう一人は、そのうちにまた登場するのだろうからここでは特に言及しない)

嬉しいことに、と簡単と言ったけれど、僕はその二人にお会いして最後に別れ際には、いつも本当に幸福感というか、この人と出会えて良かったと心から思う時間が、別れた後も続く。それくらい嬉しいことなのだ。

僕が思ったこと、感じていることを素直に打ち明けると、その言葉がどんなに未熟であろうと受け止め、そして素直な言葉を返してくれる。きっとそんなに人と人との関係の中で簡単なことではないのだけれど(少なくとも僕にとっては難しい)、いつでもその付き合いをしてくれる。時には弱さも見せてくれる。

 

僕らも少しずつ年を重ねてきていて、これから新しいステージへとまた進んで行くんだけれど、本当に不安なことなんてきっと数え上げればキリがない。もちろん不安にもなるし、大変なことだってある。倒れそうになることもあって。

だけど、そういう僕らを見守ってくれて、倒れそうになった時には手を差し出してくれる大人たちに出会うことができていることは、きっと僕たちにとっての幸いであると思う。不思議なもので、そういった人たちが僕たちのそばにいてくれている。

 

きっと同世代の友達だって何よりも大切な存在だということもある。だけど同じように年配の友人だって、何よりも大切な存在だろうと、僕は思う。多分そういった存在に出会えるかどうかって、人生の豊かさの意味では、大きな部分を占めるような気がしているんだけど、どうなのかな。(何よりも大事なものが2つなんておかしいという事はないのです)

勝手に抱いていた、大人ってお金を持っていて自由なんだろうなってイメージとは違って、僕が素直になることができる大人は、もっと違った意味で自由だ。その自由がなんなのか、うまく言語化できないけれど、頑張って言葉にすると、もう少し自分を手放しているという感じ?

 

若い頃から夢や努力を教えられてきて自分もそれを信じてきたから、色んなことを僕らが決めていて、僕らが歩いているように思ってしまうことは多い。

だけど実は、こうした人たちとの出会いや関わり合いの中で進んでいるっていうのが多分近くて、そもそも自分の決めていることなんてほんと少ないんではないかな、なんて思っている。ほら、こうして考えていることだって人との出会いと関わり合いで変わってる。

 

だから、ちょっと逆説的だけど、「自分」ってものから距離を取ることが、少しずつ自由な状態に近づく事なんではないかなぁとか。そう思うのが自分だから結局のところ、よく分からないけれど。

でも少なくとも、僕が素直になれる大人のような、大人に近づいていったらいいなぁと思う。

 

2017.05.03 23:31